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イカを美味しく食べて健康になろう

食べ物が美味しい季節がやってきました。日本人が昔から食べ続け、今でも愛されている海の幸といえばイカ。種類も豊富で、さまざまな調理方法があります。今月はイカの種類や栄養価、郷土料理などをご紹介します。

 

●イカは低カロリーのヘルシー食

 

日本人とイカの関係は非常に古く、『出雲国風土記』(733年)にもイカの名前が出てくるほどです。1980年代、世界で獲れるイカの半分は日本人が食べていました。最近では鮭などの消費が伸びていますが、刺身などの生鮮食料用と加工用を合わせると、消費量はいまだトップ。漁獲量の半分は塩辛、さきいか、イカの燻製などに加工され、どれも私たちの食生活に欠かせない存在です。ただ近年は温暖化の影響か、不漁が続き、とくにスルメイカの漁獲量が激減して問題になっています。

イカは良質なたんぱく質を多く含み、しかも低カロリーなヘルシー食として知られています。また血中コレステロールを抑え、血圧を整える物質「タウリン」が豊富です。

 

●種類豊富なイカの魅力

 

約500種類は存在するといわれるイカですが、日本人が食べているのは、このうちの約30種類です。代表的なものはスルメイカで、北海道が主産地。現地では「真イカ」と呼ばれることもあります。

長崎県で多く獲れるケンサキイカは「イカの王様」と呼ばれ、高値で取引されます。「水イカ」という別名のある大型のイカ、アオリイカも高級魚の扱いです。また10月から春先にかけて、西伊豆の仁科ではヤリイカの一本釣りが行われます。胴の長さが40センチにもなるイカですが、刺身で食べると、肉厚で甘く柔らかな風味を楽しめます。

また体に大量の発光器を持つホタルイカは春の美味。この他、沖合に生息する大型のアカイカ、アフリカやヨーロッパの海で獲れるモンゴウイカなどは加工用に利用されています。

 

●郷土料理に欠かせないイカ

 

日本各地で水揚げがあるイカは、郷土料理としても広く愛されています。中でも、よく知られているのが北海道の「イカめし」。はらわたとげそを取り除いたイカの胴体に米を詰め、だし汁で炊いて仕上げます。第二次世界大戦中、函館線森駅の駅弁として開発され、腹持ちがよいと評判になり、戦後も人気駅弁として広く愛されています。

福島市周辺の冬場の郷土料理として、昔から作り続けられているのが「イカにんじん」です。スルメイカと人参を細切りにして、みりん、しょうゆ、酒を合わせた漬け汁に浸すだけ。各家庭でさまざまな味のバリエーションがあります。

岩手や北海道などでは「イカ徳利」が作られています。イカの胴体を徳利のようなかたちに整えて乾燥させ、実際に燗酒を入れて使います。酒にイカの風味が加わり、一段とおいしい味わいに。数回利用したあとは、軽くあぶって酒の肴に変身します。

 

以上、さまざまな角度からイカの魅力をお伝えしました。今日の夕飯にイカの刺身や炒め物、煮物などはいかがでしょうか。ヘルシーなイカを楽しく食べて、健康な体づくりを進めましょう。

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歴史を知って、コーヒーをもっと楽しもう

アメリカ、ドイツに続いて世界第3位のコーヒー輸入国、日本。ひとり当たり週10杯ほどのコーヒーを飲み(社団法人全日本コーヒー協会調べ)、まさに生活文化の中に欠かせない存在になっています。今月はそんなコーヒーの長く、ユニークな歴史について紹介します。

 

●栽培植物としてのコーヒー

 

コーヒーはアカネ科の植物であるコーヒーの木から採集します。産地ではコーヒーの苗木を農園に植え、2、3年育成し、白い花を咲かせます。ジャスミンの香りに似た美しい花がしぼむと、コーヒーの実がなり、これが真っ赤なサクランボのように熟すので、コーヒーチェリーと呼ばれています。

農家の人々は、このコーヒーチェリーを摘み取り、中に入っている種子を取り出します。これがコーヒーの生豆です。乾燥させ、焙煎すれば、おなじみのコーヒー豆になるのです。

コーヒー豆の種類は大きく分けて、アラビカ種とロブスタ種の2種類です。中でもエチオピア原産のアラビカ種は世界各地で広く栽培され、全体の7?8割を占めます。ビクトリア湖周辺から西アフリカ原産のロブスタ種は残りの2、3割の生産量ですが、病虫害に強く、ブレンド用に重用されています。

コーヒーは生育条件が厳しく、雨季と乾季のある場所、そして年平均気温が20度くらいの過ごしやすい環境が必要です。地球上で栽培最適地を見ると、赤道を中心に、南北の回帰線に挟まれた土地に限られ、これをコーヒーベルトと呼んでいます。原産地のエチオピアはもちろん、ケニア、インド、ベトナム、ジャワ、グアテマラ、コスタリカ、ジャマイカ、ブラジルなど、有名産地はすべてこの地域に含まれています。ほぼ唯一の例外はハワイ島で栽培されているコナコーヒーと言われています。

 

●アラビアで愛されたコーヒー

 

コーヒーに関する記録でもっとも古いのは、紀元900年頃に書かれたアラビア人医師ラーゼスの書いた文書です。彼は野生のコーヒーの種子の煮出し汁を患者に飲ませ、臨床記録を残しました。そこには「コーヒーは消化を助け、利尿作用がある」などの言葉が残っています。

また13世紀にはエチオピアのヤギ飼いが、コーヒーチェリーを食べて興奮して騒ぐヤギを見て不思議に思い、近くの修道院に、その話を伝えました。修道院長も不思議に思い、コーヒー豆を茹でて飲んだら気分が爽快になり、それから各地にコーヒーを飲むという習慣が生まれたという伝説が残っています。

コロンブスがアメリカ大陸を発見した15世紀頃には、メッカなどアラビア各地でコーヒーの飲用が広がり、16世紀にはトルコにも伝播。1554年には世界最初のコーヒーハウスがイスタンブールにオープンしました。その後もコーヒーハウスはトルコ全土に広がり、社交の場として多くの人に愛されるようになりました。

 

●ウィーンのコーヒーの事始め

 

その後、コーヒーはトルコからフランス、ドイツなどに伝わっていきました。1683年にはトルコのモハメッド4世が30万の軍隊をウィーンに派兵し、陥落させようとしました。するとトルコの言葉や風俗に通じたコルシツキーという人物がトルコ軍包囲網を突破して、隣国から応援を呼び、トルコ軍を敗退させることに成功。その時、大量に残されたコーヒー豆の使い方を知っている人がいなかったので、彼はこれを戦利品としてもらい受け、数日後、ウィーンにコーヒーハウスを開きました。これが現在にまで続くウィーンのコーヒー文化の始まりとなったのです。

さて、そんなコーヒーの歴史を追いかけて、日本にやって来ました。我が国にコーヒーが伝わった正確な年代はわかっていませんが、17世紀、長崎の出島にあったオランダ商館の駐在オランダ人によって、持ち込まれたのではないかと考えられています。

 

以上、コーヒーの伝播の歴史について解説しました。そんな歴史を思い浮かべながら楽しむコーヒーは、いつもよりさらにおいしく感じるかもしれませんね。

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孔子について学んでみよう

古代中国の思想家で、儒教の産みの親である孔子。彼の言行録である『論語』は、成立から約2500年たった現在でも、大切に読み継がれています。今月は孔子の生涯について、またその思想についての基礎知識をご紹介します。

 

●「徳」で国を治める思想

 

孔子は紀元前551年、周王朝の魯という国で生まれたと言われています。父親を早くに亡くし、貧しい母子家庭で育てられました。独学で勉強をして、魯の下級役人となったものの、倉庫係や牧場の管理人といった仕事を与えられ、とても満足できるものではなかったのです。

30代になると、孔子は学者として名を上げるようになりました。魯の国で重用されるようになり、大司冠(だいしこう)という、現代風に言うと司法警察長官に出世。彼の希望は叶いつつあったのですが、政争に巻き込まれて55歳で魯の国を追われてしまいます。

その後はさまざまな国を転々としながら、孔子は「徳」によって国を治める政治を説き続けます。人の徳が十分に育てば、争いごとがなくなり平和に暮らせるという「徳治主義」を唱えたのです。しかし当時の中国は富国強兵の戦国時代で、下克上が盛んに行われているような社会でした。孔子の理想はなかなか受け入れられず、孔子は失意のまま魯の国に帰国しました。

その後は弟子の教育に邁進し、亡くなるまで思想を伝え続けました。

 

●現代に生きる孔子の言葉

 

『論語』は孔子が直接書いた書物ではなく、没後400年ほどの時間をかけて、何代もの弟子によって書き継がれたものです。その内容は孔子と弟子との間でかわされた言行録で、聖書のような物語形式をとっていません。したがって、どこからでも読み始めることのできる体裁の書物です。

全体は20編にまとめられ、約500の章があります。その中から、よく知られている言葉をピックアップしてみましょう。

「学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや」

自分が学んだことを時に復習して、できなかったことができるようになるのは、嬉しいことだ、という意味。現代の生涯学習にも通じる発想です。

「過ちて改めざる、是れを過ちと謂う」

過ちを犯しても改めないのを、本当の過ちという、という意味。人は誰でも失敗し、過ちを犯しますが、それを二度とくり返さないことが大事です。誤ったときにごまかして済ませ、それを後日くり返すようでは人の成長はありません。

「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず」

孔子は晩年、人生を振り返り、この有名な言葉を言いました。「私は15歳で学問を志し、30歳で独立。40歳で迷いがなくなり、50歳で自分は何のために生きているのかという天命を知った。60歳になると他人の言うことを素直に聞くことができるようになり、70歳にして心おもむくままに行動しても人の道から外れなくなった」。この言葉から40歳を「不惑」、60歳を「耳順」、70歳を「従心」と呼ぶようになったのです。

 

以上、孔子と『論語』の基礎知識をご紹介しました。この夏休みは世界的な古典、『論語』を手に取ってみるのも楽しいかもしれませんね。