編纂から1300年を越えた日本最初の文学『古事記』。イザナキとイザナミの話など、おなじみのエピソードが満載で、近年、作家の池澤夏樹さんが新訳を出して評判を呼んでいます。しかし、そもそもこの時代、日本人はどのような暮らしを送っていたのでしょうか。考古学などの研究成果から、1300年前の生活を探ってみましょう。
●竪穴式の家に住む
当時の住居といえば、なんといっても竪穴式の建物です。まず地面を50センチ?1メートルほど掘り下げて柱を立て、穴全体を覆う傘のような形で屋根を葺きます。初期は床に炉を作っていましたが、『古事記』が書かれた頃にはかまどで火を炊き、料理をしていました。
古墳時代(3?7世紀頃)から飛鳥時代(6世紀末?7世紀)になると、稲作が盛んになって、少しずつ掘立柱建物と呼ばれる住居が作られるようになりました。地面に穴を掘って、柱になる木材を建て、土間を直接床にしたり、高床式にして住居を作ります。当初は食糧倉庫や軍事用の見張り小屋という使い方をされていますが、西日本の方から少しずつ有力者の住居などとして掘立柱建物が増えていきます。
もっとも庶民の家が掘立柱建物になるのは平安時代以降。人々は長い間、竪穴式の家で暮らし続けていたのです。
●ファッションは中国風
『魏志倭人伝』を見ると、弥生時代の日本人の服装はとてもシンプルでした。男性は横幅の広い布を腰に巻いて、前で結ぶ形。女性は布の真ん中に頭を通す穴をあけてポンチョのように着る貫頭衣を着ていました。
古墳時代になると、かなり衣類らしい形になってきます。『古事記』などの記述を見ると、上流社会の人々は筒袖の上着を着て、男性は袴、女性は長いスカートのような裳を身に纏っています。飛鳥時代には唐から律令制がもたらされ、朝廷では男女ともに唐の士人風のファッションが推奨されました。詰め襟で広めの身幅と長めの袖の上着に、男性はゆったりした袴、女性はひだのたくさんある裳をつけます。
7世紀には男女とも結髪令が出て、男性は頭上で髪をひとつに束ねるようになりました。これがちょんまげに繋がり、明治の断髪令まで続く男性の髪型の元になります。しかし、この結髪は当時に女性達に大不評だったようで、数年後には女性のみ「以前のように垂髪でよろしい」という令が出ました。背中に長い髪を垂らすのが、当時の女性たちが熱望していたヘアスタイルだったのです。
●五穀と山の幸、海の幸たっぷりの食生活
『古事記』の時代、日本は狩猟採集時代から水稲栽培の時代へと移行し、人々は米を食べるようになっていました。そのほか粟、ヒエ、麦、豆、そして縄文時代からの食材であるクルミや栗、ドングリなど種類は豊富でした。『古事記』にはイザナギが黄泉の国から逃げ帰るとき、あとを追ってきたイザナミらに葡萄、タケノコ、桃を投げつけて逃げ切った、という記述があります。
また海の幸も豊かで、人々はマグロ、ニシン、イワシ、アジなどを食べています。石川県の真脇遺跡では大量のイルカの骨が出土し、縄文時代から日本人はイルカを食べていたのがわかっています。
以上、『古事記』の時代、日本人がどうやって生活していたのかを衣食住を通して振り返りました。当時の暮らしを想像しながら、古典中の古典、『古事記』を読み返すのも面白いかもしれません。