12月16日は「電話創業の日」です。明治23(1890)年のこの日、日本で初めての電話が東京と横浜の間に開通しました。そこで今月は電話が日本にどうやって導入され、今日のように発展したのかをご紹介します。
●電話の年間使用料金は10万円以上!?
明治23(1890)年12月16日、東京と横浜の市内と両都市の間で、電話交換業務が始まりました。これが日本の電話の歴史のスタートです。
当時は交換手が間に入って、手動で回線をつなぐしくみでした。加入者から通話があると交換手がジャックにプラグを差し込み、加入者から相手先の番号を聞きます。その番号にもう一方のプラグを差し込んだら、通話ができるというしくみです。創業当初の加入者は、東京が155人、横浜が42人のみ。年間の利用料が現在の価値で10万円以上もしたので、庶民には高嶺の花だったのです。東京辰の口(現在の大手町界隈)と横浜居留地に電話局が置かれ、女子7人と夜勤の男子2人が交換手として働いていました。その後、全国完全自動化が実現する1979年まで、日本の田舎の小さな電話局では手動回線が生き続けていました。
●電話で話すと病気になる?
電話創業と同年の11月1日に創業を始めた浅草の高層建築「凌雲閣」でも、当時の所轄官庁である逓信省が電話の宣伝活動を行っています。ビルの1階から最上階の12階までを電話でつないで体験通話をするというもので、電気で通じる電話を見て「火事になる」「病気がうつる」などと恐れた人々も少しずつ、その存在を受け入れていきました。
明治33(1900)年には新橋駅、上野駅を皮切りに公衆電話が設置され、誰もが電話を使う時代になります。しかし大正12(1923)年の関東大震災でせっかく整い始めた電話網もずたずたになり、その修復の過程で交換機の自動化が取り入れられることになりました。1926年、東京・京橋局に日本第一号の自動交換機が導入されています。
その後も順調に電話網が広がり、加入者も増えていきました。ところが第二次大戦で再び、電話のインフラが破壊されます。戦争末期に100万台を超えた電話加入者は、戦後は54万台に半減。再度の復興に立ち上がりました。
●電話がすぐにつながる時代へ
1949年、電話の事業を担当していた逓信省はGHQ(連合国総司令部)によって、電気通信省と郵政省に分離させられ、電話は電気通信省の管轄となります。しかし、その後もなかなか電信電話の状態が復興せず、加入申し込みは2年待ち、市外通話は1、2時間待つのが当たり前という状態でした。そこで省庁より機動力のある企業のスタイルにしようという方針で1952年、日本電信電話公社(電電公社)が誕生。同年にはサンフランシスコ条約が締結されて日本の独立も回復し、ようやく電話の復興に勢いがつき始めました。
電電公社は国産の自動交換機を開発し、全国に導入。1967年には電話機の数が約1000万台になり、全国の県庁所在地の都市間なら相互の通話が自動的に即時つながるようになりました。その後も交換機をさらに進化させ、1978年には長年の懸案だった積滞(すべての利用者に同じサービスを行えない状態のこと)が解消。電話を申し込めば、すぐに設置してもらえるようになりました。その翌年には全国自動即時化(電話をかければ自動的に、瞬時につながること)が達成されたのです。
現在では携帯電話に取って代わられようとしている加入式の固定電話には、先人達の技術開発の努力と設置の苦労がありました。ついつい手軽にメールで用件を済ませる昨今ですが、たまにはそんな歴史に思いを馳せながら、大切な人、お世話になったあの人に声のお便りを届けてみてはいかがでしょうか。